「他者に与えられるときに与えるだけ与えつくす」、これは起業当時多数の社員を抱えるようになった頃から徐々に強く意識するようになった私の信条です、ただそんな私でも他者に与えることをしない人には一切与えることはしません、例え社員であってもです、そういう社員は遅かれ早かれ自ら辞めていくことになります。
与えることを止める理由は明確です、「与えることをしない人間は与える者の与える意義と覚悟と思いやりを理解できない」からです、つまりそういう人に与えても応えるものが何も無いからです、他者に与えるという行為は他者に与える人でなければ心から感謝の気持ちが湧いてきません、与えることをしない人は貰う事が当たり前に思っているから与える人の気持ちなど考えることもないのです。
何度も頭を下げては口達者に各種の事項で与えてもらおうと毎日のように事務所に来た人もいました、実際私はその人には3回までは与えていますが変わろうとしなければお終いです、また夢の実現には無関係とも思える人に利益を出さなくも継続して報酬を出し続けることもありました、しかし与えたもので上手くいけばその恩など直ぐに忘れて多額の利益を得ても全て自分の懐へ入れ次から次へと貰う算段ばかりです、結果他者に与える人ではないということで以来そういった要求を察することもしようとはしませんでした。
「あの人はこういう事をしてもらってる、私にも何かください」とストレートに言う人もいました、その人には私もストレートに「あの人は与える人だから私も与えるのです」とストレートに返します、与えることが当たり前だと思っている人はこんな世の中でも少なくないと思います、特に私の世代は生まれた時代が「貧しいながらも互いに分け与える時代」です、与え合うことは当然のことだと思っているのです。
でも与える人は例外なく貰うだけで与えない人には1度は与えてもその後は与えないのです、理由は冒頭の通りです、貰うだけの人は遅かれ早かれ確実に人生破綻します、そんな人と先日も飲んだ帰りに深夜の帳で20数年ぶりにばったり再会しました、開口一番で「生活できなくて困っているんですよ」でした、何年経っても何歳になっても貰うだけの人とは本当に生活も生き方も何も変わらないのです、そして自身の為だけには惜しまず他者から得たお金を使うのです。
成功したいなら他者に与えられるときに与えることです、これまで与えることをしてこなかった人がいざとなって与えてもらおうとしても1度は情の部分で貰えても継続的には天が許すはずはないのです、だから常に手を変え人を変えては貰い続けることを思考してしまうのです。
「与えよ、さらば与えられん」とは新約聖書にある教えです、つまりは「与えない人は与えられない」ということです、これほど明確な理論は宗教や哲学で難しく解釈しなくても自然科学の「エネルギー交換の法則」や「エネルギー不変の法則」そのものです、成功したいのなら「まずは自ら他者に与えること」を意識していただきたいと思います。
学ぶ姿勢があればどんなものからでも学ぶことができます、ここ最近の私は人間からではなく自然や植物から多くを学んでいます、特に多肉植物には驚かされることばかりです、気温の低い冬と気温が上がってくる春ではまるで別の植物になってしまいます、葉の色も大きさも形状も茎までまるで違う質感と色に変化します。
温度だけではありません、日光の当て具合でも同じ植物とは思えないほどの変化を遂げて生き延びようとします、最も驚くのが多肉植物はサボテンから進化した植物です、したがって水を与えすぎるとすぐに根腐れを起こして枯れてしまいます、ところがこの多肉植物だけでなくサボテンまでもが水耕栽培が可能なのです、乾いた状態での根を全て落として新たに水中用の根を生やして生き延びようとするのです。
この環境適応能力には自らの実験を通して最も驚かされた事実です、ネットに溢れる情報とは真逆の事実が目の前に展開しているのですから、何故この実験をやってみたかというと気温や光によって大きく変化する植物だからです、なのできっと水を嫌う環境からいきなり水だけの環境でも適応するはずだという仮説を立てたからなのです。
水だけで液体肥料も無しにずっと成長し続けています、ただ姿は大変化します、茎は長く伸び葉も多肉とはいえないほどに薄くなってきます、もしかしてサボテンから多肉植物が進化して生まれ、多肉植物から草本(そうほん)類が進化して生まれる過程には確実に地球環境の変化があったのだと推測されます。
この植物の進化を目の当たりにして新たな気付きを得るのです、「何故、人間は環境が変化しているのにそれに適応するように変化しようとしないのか?」という疑問です、そう言えばゴジラの話題作の一つである「シン・ゴジラ」ですが門下生やクライアントに会うごとに「観た方が良いよ!」と声をかけ多くの人が観てくれました。
何らかの目的を持ったゴジラは水生動物の第一段階から最終形の5段階まで進化を遂げながら人間にメッセージを投げかけます、いったい何人の人がここから大きな学びを得てくれたのでしょうか、そして何故私が奨めたのかを理解してくれたのでしょうか、少なくても、「シン・ゴジラ」は進化することだけがメッセージではないことは確かです、もっと大きなメッセージが込められているのです。
「どんな人にも価値と存在意義が有る」、28歳で起業した当初から多数の社員を雇い多くの顧問やビジネスパートナーと契約してきて確信しています、しかし「誰がどう見ても自己利益しか見ていない人とどうして組むのですか?」などと聞かれることもあります。
こうした質問が出る背景もよく解ります、私は日頃から組むなら「与える他者利益優先の人」と言っているのですから矛盾を感じるのでしょう、こうした質問には詳細に説明することもしません、多くを語れば対象の人を卑下することになります。
その対象の人には大きな価値と意義を見いだしてのことだということだけは言えます、それが例え一時的に自身のマイナスポイントになろうがその瞬間では重要な役割を果たしてもらえるということ正直なところです。
その裏にはある確認事項があるのです、それはそういう自己利益優先の人間はまず関係解除する際に極めて速やかに奇麗にできるということが上げられます、実損失も勿論出るでしょう、しかしそれ以上に関係解除する際に長期間もめることが最も厄介で損失が大きいのです。
ある一定の期間限定で自己利益優先の人とは目的を持って組むのです、それも中途半端はそれこそ意味はなく会社であれば役員にまで就任させることさえあります、そして関係解除の時にはこれ以上私と組んでいても利益にならないという状況を作りあげれば何もせずして相手から関係解除して離れていくのです、ここが男女関係なく自己利益優先の人の最大の特徴でもあるのです。
そういう人の価値とは何なのか、組織は例外なく成長段階では必ず目的を一つにした人だけが集まるわけではなく各自の目的と利益が混在した混沌とした状況が続きます、これは組織構成員のそれぞれの思惑が組織が小さいうちは閉じ込められていても大きくなるにつれ増長されてくるわけです、これが一つの組織の自然摂理でもあります。
次第にそれが独り歩きを始め創設者の意図とは違う価値観と方向性が生まれてくるようになります、これは創設者から見ると実に頭の痛い忌々しき状況となるのです、そんな時に有効に機能するのが誰が見ても解りやすい自己利益優先の人なのです。
同じ類の人は同じ類の人と組もうとします、それは組むにあたり居心地が良いからに他なりません、目的も価値観も共有できるのですから、そしてタイミングを見計らってその人と関係解除をするとどうなるでしょうか、そうです一斉に自己利益優先の他者に与えようとしない人がその人にくっついて出ていくのです、これが「石鹸効果」というもので組織が奇麗にギュッと締まり目的を一つにする人だけが残るのです。
ちなみに「石鹸効果」とは石鹸は油から作られ油汚れを奇麗に落とします、つまり同じ種の汚れを奇麗にするには同じ種の洗剤役が必要というわけです、こういう状況下を短期間に何事もなくクリアさせるとその後入ってくる人は残った同じ種の人ということになります、極自然に自己利益優先ではなく他者利益を考えられる他者に与えあう強い組織が自発的に出来あがっていきます。
「どんな人にも価値と存在意義が有る」、それを充分に理解した上で各種の策を発動すればよいのです、「策多ければ勝ち、少なければ負け」、関連する人の個性を見極め内外に同時多発的にクリティカルな施策を発動することが勝者の法則の一つです。
ブログを始めて以来の毎日更新というルーティングはビジネスの大きな原動力にもなっているのは確かです、その継続させているブログで十数年間続けているライフワークの一つがブログのメンテナンスです、年に数回「ブログメンテナンス週間」よろしく1週間ほど気持ちをブログメンテナンスに切り替え過去の記事を整理しています。
複数の記事を1つにまとめたり、また逆に1つの記事から複数のシリーズものに転じたり、内容や言い回しを修正しながらその時点の出来事の記憶の整理も含めて行います、この作業は意外に時間もかかるし思い出したくもない出来事を思い起こされ嫌な面も多々あります。
しかし常に本音の記事ですのですべてが自身の行動の結果がブログに集約されていると思っていますので真摯に過去の自身と向き合っています、したがってもう一人の自分自身と真摯に向き合う思考確立の時間と思えば案外感慨深い作業なのかもしれません。
この作業で嫌な事ばかりではなく良い面も多々あります、例えば当時では旬なビジネスヒントを思い出すことが大きいです、日々の事業推進で頭のどこかに放置されてしまった記憶、これがある記事を修正中に突然当時の思考記憶が表面化することがあるのです。
ブログも数千記事ともなれば一つの自分自身の生きてきた足跡コンテンツです、思考を文章にまとめることでの新たな発想やアイデアの確立、そして思考の起動修正を行えるのがブログという一つの「思考媒体」だと私は考えています、自身の思考のブラッシュアップに、私の場合はブログを十数年間も活用し続けているのです、私にとっては「たかがブログ、されどブログ」なのです。
そして、常に誰かに読んでほしいなどと一度も考えたことはありません、むしろ逆で読まれないようにと祈る気持ちも多々あります、それでもブログに残すのは頭で考えているだけでは思考は確立しないからです、誰が読むか解らない媒体で文章にすることにより強く意識し自身の中に確固とした思考が確立するようになります。
これはある意味での出版感覚に近いかもしれません、一旦表面意識に思考が確立すると今度は時間を経て無意識の領域に入り表面意識はその問題から解放され自分自身と一体になり受け入れられなかった事項を受け入れることができるようになります。
過去から世に存在する多くの成功者を調べてみてください、皆さん何らかの形で自身の考えを文章化して後世に残しています、松下幸之助は若い時から毎日自身の考えを日記に書き残していました、具体的な形ある行動、そしてそこから生まれる自信と姿勢、一度でも言ったことへの責任、結果として根拠を残す、この自身を追いこむ過酷とも言える精神的プレッシャーは本当に厳しいです。
これが経営者には重要なのです、たかがブログ、そのたかがブログでさえ継続することができなくてまともなビジネスなどできるはずもないのです、自分と自分が起こした現実に真摯に向き合い嫌な事も真正面から受け入れながら人は成長していけるのです。
楽しい事ばかりを受け入れ嫌な事から都合良い理由を付けては何時までも逃げていては人間何歳になっても成長することはありません、30歳で立身、40歳で不惑、50歳で知命、60歳で耳順、70歳で従心、歳相応に成長していくことが「良い歳の取り方をしてる」ということだと思います。
梅雨そして秋の長雨と長期間の雨の季節は心情的にも物憂げな季節です、私はこの時期には経営者としてその後に繋がる前準備をすることにしています、私の考える雨の季節とは「計画の季節」を意味します、活発に動ける季節への計画や準備をじっくりと机上作業により体力を温存しエネルギーを充分に充電させるのです。
「動きながら考えるな」とは長年の私のビジネス信条です、だから動くときに考えなくても良いようにこの季節にしっかりと先を観て計画と準備を怠らないことが肝要です、事業計画に長短期での資金繰り計画や行動計画の策定と次のステップに移行するための計画を充分にやっておくのです。
ここで次のステップへの最大の準備とはズバリ憂いを取っておくことに他なりません、解りやすく言えば将来のトラブルや頭の痛くなる事に繋がるであろう事項を洗い出してはそうならないように予め奇麗に清算しておくのです、これをやっておかないと新規事の計画は本末転倒であり憂いを先に考えてしまってまともな行動などできるはずもありません。
その意味では日本に生まれて良かったと思います、日本には6つの季節があるからです、冬・春・梅雨・夏・秋・秋の長雨(秋梅雨)、それぞれの季節感を経営活動に生かすことができるからに他なりません、是非とも経営に季節感を取りこんでいただきたいと思います。