お金に執着しない人は、
お金が貯まることはなくてもお金に困ることはない。
何故ならいつも何処からかお金が回ってくるから。
本当に不思議な事実がここにある。
逆にお金に執着する人は回ってくるお金もない。
使うから回ってくる、
使わないから回ってこない。
極めて経済循環法則とはシンプルである。
お金だけではなく見えない各種支援も含め、
与える人には全てを与え、
与えない人には一切与えない。
ある意味で天は一貫として万人に常に平等なのだと思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
子曰く「四十にして惑わず五十にして天命を知り、
六十にして他者の話を素直に聞けるようになり、
七十にして心の欲するところに従えど矩 (のり) をこえず」。
その歳に相応しい正しい生き方を説いた孔子の教えである。
いい歳をして尚も自身の存在意義と使命に気付かず、
「何故ここに居る?」の質問にも明快な回答が出せない。
目的思考ではなく生活の為の手段思考の人が多くなった。
何事にも意味と理由が明確に存在している。
自分が生まれてここに居る意味も理由も当然に在る。
その意味と理由を明確に理解できなければ、
今優先すべき事項と付き合うべき人も当然解るはずもない。
ただただ自分と家族の生活の為に嫌な労働を自身に課して、
働く為に生き続ける人生が意義在るものなのだろうか。
お金を得る手段の労働と、
理想の実現を目的にしたビジネスとは180度異なる。
手段に甘んじているから人生の疑問も出ない。
「何故ここに居る?」の質問に明快に回答できない人に、
他者の気持ちも存在意義も理解できるわけがない。
そしてあらゆる存在に感謝することもないのだろう。
正直あまり関り合いたくない人である。
価値観と互いの存在意義を共有できない人は、
きっと同じ時空を生きながらも別の次元に住む人だと思う。
そう考えると妙に心が楽になるのを覚える。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何が愉しいのか辛いのか。
この価値観の不一致ほど負の連鎖を生じさせるものはない。
他者の未来構想を聞いて自身の将来ビジョンを思い描く。
経験した事がない別世界の知識とノウハウを学べる。
自分の個性と客観的に向き合うことができる。
そして同じ時空間を過ごして信頼を高め合う。
私はこれほどの愉しみも喜びも他には無いと思う。
そんなことより今この瞬間の気分だけを思考しては、
愉しいのか辛いのかを判断する人がいる。
打算的な損得勘定だけで、
他者の貴重な時間を奪い愉しめないことに散財する。
価値感の不一致はどんなに歩み寄ろうとしても、
互いを理解し信頼し合えることは永遠にこない。
愛情を嫌悪に愉しみを辛さと感じるのだから。
一緒に歩むことができない典型的な人であり、
双方にとって距離を置くのが懸命である。
互いの苦楽を共通認識として共に愉しめない人と、
同じ方向を向いて同じ夢を語れる日は永遠にこない。
100歩譲ったとしてもビジネスライクが精いっぱいである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
私は信州の大自然の中で生まれ育った。
信州ではいまだにお返し文化が息づいている。
何かを貰ったら必ずお返しするのが当たり前。
例えば風呂敷にお土産を包んできた人には、
その風呂敷にお返しを包んで渡す。
紙袋もそのまま受け取ることは絶対にしない。
それができなかったら、
どんなに困っても誰も協力などしてくれない。
これが与え与えられの共存共栄文化というものだ。
そんな私は貰うだけの人にはもの凄い違和感を感じてしまう。
見えるものだけではなく見えないものも含めてだ。
何故貰うだけでお返ししようという気持ちが芽生えないのだろう。
更に言えば気持ではなく姿勢を示さなくては駄目なんだ。
貰うだけの人は生まれ育った地が貰うだけ文化の地なのだろうか、
それともその人独自の貰うだけの個性なのだろうか。
いまだに明確な回答は見つかっていない。
ただ最近の私は大人の対応をするのにも限界を感じつつある。
何れは貰うだけの人とは縁を切ることになるだろう。
私の人生には一方通行の人間関係など存在していないのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
生活するに充分すぎるほどのお金が有るときも、
明日の生活に困るほどにお金が無いときも。
順調すぎるほど事業が進展しているときも、
障害が怒涛の如く押し寄せ一向に進まないときも。
何の憂いも無く日々穏やかに過ごせているときも、
家族や人間関係のトラブルの雨嵐が吹き荒れるときも。
誰に会っても常にステイディに自分のスタイルを通し、
裏にある善悪の事情など微塵も感じさせずに極自然に振舞え、
ある時は意図的に自身の好ましい状況になるように誘導できる。
歳を重ねるといろいろな意味で芸達者になってくる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。