私は信州の大自然の中で生まれ育った。
信州ではいまだにお返し文化が息づいている。
何かを貰ったら必ずお返しするのが当たり前。
例えば風呂敷にお土産を包んできた人には、
その風呂敷にお返しを包んで渡す。
紙袋もそのまま受け取ることは絶対にしない。
それができなかったら、
どんなに困っても誰も協力などしてくれない。
これが与え与えられの共存共栄文化というものだ。
そんな私は貰うだけの人にはもの凄い違和感を感じてしまう。
見えるものだけではなく見えないものも含めてだ。
何故貰うだけでお返ししようという気持ちが芽生えないのだろう。
更に言えば気持ではなく姿勢を示さなくては駄目なんだ。
貰うだけの人は生まれ育った地が貰うだけ文化の地なのだろうか、
それともその人独自の貰うだけの個性なのだろうか。
いまだに明確な回答は見つかっていない。
ただ最近の私は大人の対応をするのにも限界を感じつつある。
何れは貰うだけの人とは縁を切ることになるだろう。
私の人生には一方通行の人間関係など存在していないのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
生活するに充分すぎるほどのお金が有るときも、
明日の生活に困るほどにお金が無いときも。
順調すぎるほど事業が進展しているときも、
障害が怒涛の如く押し寄せ一向に進まないときも。
何の憂いも無く日々穏やかに過ごせているときも、
家族や人間関係のトラブルの雨嵐が吹き荒れるときも。
誰に会っても常にステイディに自分のスタイルを通し、
裏にある善悪の事情など微塵も感じさせずに極自然に振舞え、
ある時は意図的に自身の好ましい状況になるように誘導できる。
歳を重ねるといろいろな意味で芸達者になってくる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
騙されたとか裏切られたとか、
誰しも大小問わずに人生には悲劇は幾度となく訪れる。
ここで騙されたり裏切られた経緯を熟考してほしい。
多分に思惑や受益を期待したからではないだろうか。
つまりは全てが自身の責任ということである。
この忌まわしい記憶が成功人生の大きな障害になる。
忌まわしい過去の記憶は自身の責だと潔く省みて、
相手を認めることによってのみ負の呪縛から解放される。
ただし認めるとは許すとは異なり状況を理解することにある。
清算するなら先ずは過去の忌まわしい記憶である。
そして新たに開いた未来を無垢の思考で生きること。
忌まわしき過去の記憶を未来の成長の糧に変え、
日々前向きに幸福感に包まれて余生を大いに愉しむことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
歳を重ねるとどんどん目が悪くなり、
これまで見えていたものが見えなくなってくる。
逆に若い頃には観えなかったものが、
今度はくっきりと観えるようになってくる。
対照的なフィジカルな目と心のロジカルな目。
この陰陽バランスを思考すると妙に納得できる。
老兵の心眼を若いうちに得ていたかったと思う昨今。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
本来「不吉な予兆」を指すジンクスでも、
思考を変えれば自分に都合のよいジンクスに変わる。
思考によって成功ジンクスを作ることが肝要である。
私にも多くの善事が起こる成功ジンクスがある。
原因も無く突然歯や頭が痛くなる。
連絡が途絶えた人と偶然に再会する。
外に出た瞬間に雨が降る。
歩いているとお金を拾う。
眠れない夜が続く。
成功ジンクスを作り上げてマイナス状況をプラスに変えろ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。