2023年9月27日 08:00
儒教でいう五常の「仁・義・礼・智・信」、この中で私が最も心に留めている事項が一般にいう「仁」ではなく「義」です。
「義」とは正義・恩義・大儀などいろいろあるのですが、論語にいう「義」とは「人として正しい道」と説いています。
何故私が「義」を重んじるかというと「義」には「仁・義・礼・智・信」の全ての基本姿勢が在るからです、「義を理解して初めて仁も礼も智も信も知る」というのが私の解釈です。
「人として正しい道」、言葉では実に簡単ですがこれを行うのは簡単ではありません。
例えば私はよく知人に人を紹介することが多いのですが、その際に知人同士が何らかの結果を求めて個別に会うこともあります、この際にその人の「義」の価値観を垣間見るのです。
私は紹介された人と会うときは必ず紹介してくれた人に連絡します、緊急的なことなら事後報告になることもありますが黙っていることはありません。
これを平気でできる人が実に多いのです、知人同士がビジネスを行おうとプライベートで会おうとそれは全く問題ないことです、しかし上手くいっている場合はそれでも見て見ぬ振りもできます。
問題は関係が拗れた時です、その状況で双方から初めて事実を聞かされても私として責任は取れませんし仲裁することもできません。
私が紹介者に必ず会うことも会った時の話も報告するのはそういうことなのです、その紹介者がいて初めてその人と関係ができたのです、普通に考えても紹介者を外して上手くいくわけはないのですから。
紹介者は互いを知っていて紹介しています、つまり「シナリオライター」なのです、「シナリオライター」のいない役者だけでいったい何ができると言うのでしょうか?
例え役者がベテランであってもシナリオも無く互いのアドリブを繰り返しても纏まるものも纏まりません、どんな話をしても笑顔を振りまいてもその人の「義」の度量を知ればその人の全てが判ります。
話や笑顔は幾らでもその場で作れます、しかし「義」の心は付け刃では作れません、だから私は「義」を通さない人には自分から「義」を出すこともありません。
「義」はその人の器の広さ深さ(度量)、「仁」は思考、「礼」は完成度、「智」は色模様、「信」はお墨付き、私自身はそう例えて他者を観るようにしています。