2022年10月27日 08:00
「孔門」とは孔子が開いた儒教を通した人間塾です、孔子は若き青年に「人としての正しい道」を教え、またそれを受け継いでもらえる後継者を育てるために開きました。
その「孔門」で孔子はいったい何を教えていたのでしょうか、私はこれを調べその本質を理解できたことによって、本当に孔子の「教え」の意味を知り孔子という人物としての大きさを改めて知ることができたのです。
「孔門」では今風に言うと、「算数(会計)」・「国語(読み書き)」・「体育(馬術・弓道)」・「道徳(倫理)」・「礼(マナー)」などが主な授業でした、驚くことに現代の学校教育とほとんど同じ内容なのです。
課外教育は面白くていろいろな遊びや楽器演奏や踊り、そして各界のお客さんを招いての宴会も開いていました、孔子はこれらを通して若き青年に何を「学べ」と教えたかったのでしょうか。
志を胸に秘めた若き青年は夢を抱き「孔門」に入門してきます、しかしこれらの学問とは程遠い遊びやスポーツそして宴会などの余興の数々、多くの青年はこれを見て数日で夢と現実のギャップに疲れ果てては去っていきました。
実はこれが孔子流の最大の「教育の奥義」だったのです、つまり「自分流の人間力教育を行う場合、第一にまずそれを教育として理解できない者であれば教えても意味が無い」ということをこの時点で判定するためです。
つまり自ら手を下すことなくこの先の教育に耐えられない青年を排除していたのです、そしてある意味の「自然淘汰」もしくは「絵踏み」を行っていたと考えるのが正解ではないでしょうか。
こう考えると孔子の教育もなるほどと思えるのです、孔子は知識や学問だけでは政治を行えるはずはない、ましてや人に儒教の本質を教えられるはずもないという信念を貫き通しました。
人に学問を教えるためにはそれなりの「人に尊敬される人物」でなければならない、ということを悟っていたのです。
当時、「諸氏百家」と呼ぶ皇帝に仕える「顧問」が存在していました、学問や平静する策、戦いに勝つ策などが皇帝の元に広く集められました、この中には孔子や墨子のような儒教者(儒学)、孫子のような軍師(兵法)などが多く登用されていたのです。
したがって自分の教えを世に広めるためには、まず皇帝やその側近に認められなければどんなに立派な学問も意味を持たないものになってしまうのです。
特に儒教家は「人間性」を訴える学問です、それを説く側が人間味がなくては説得性が欠けるということです。
これは現在でも当たり前のことです、成功を経験していないものが「成功術」を経営の経験の無いものが「経営」を幾ら説いても人は信じません、例をあげれば手術をしたことのない外科医みたいなものです。
そういう意味では皇帝への接待は必須であったと思われます、宴会の席では酒の飲み方(お酒のマナー)に始まり芸まで飽きさせずに楽しませることが肝要です、それが本当の接待というものでありその後に重要な話も聞いてもらうことができるのです。
そういう意味では、孔子は徹底した接待術(帝王学)を青年たちに学ばせる必要があったのではないでしょうか?
対して、同じ儒教家の墨子は「接待は儒教にあらず」と芸は青年のやる気を削ぎ宴会はお金の無駄使いと反発しました。
その結果、孔子以上の理論を持つ儒教者と謳われた墨子は真面目すぎて面白くないと皇帝から退けられていったのです。
孔子はまた、辛い修行の中から悟りを自ら開くということで武術など身体の苦痛を通して精神力の強化に努めました、人間力が備わっての学問であり知識が生かされるということです。
賛否両論、いろんなことをいまだに言われる孔子ですが、彼の教えが現代まで伝えられている事実だけを見て考えていただきたいのです。
全ての各界に君臨する成功者は、はたして理論や知識だけでそこまで行けたでしょうか、まず周囲から尊敬される人間性が必須です。
接待での酒の席で失態をさらして自分の理論を説くことが(営業)できましょうか、飲めなくば話しやお酌役で盛り上げれば良いのです、無理しなくても心が通じます、それもまた自然にできることが「人としての正しい道」なのではないでしょうか。
人間力とは究極を言うと「他人を良い気分にさせる能力」なのです、不遜な顔や無粋な言動、意味の無い感情表現や上から目線での言葉使いは決して人を良い気分にはさせません。