ビジネス百戦錬磨の多くの経験を積んできた経営者同士がビジネス上で自社の会社生命をかけての商談、相互に兵法よろしく駆け引きの攻防戦によりタフな会談が数ヶ月にも及ぶことがあります。
過去に何度もそんな局面に直面してきて思うことがあります、周囲の緊張を他所に当事者同士は結構それを楽しんでいるのです、互いのビジネスセンスと作戦を評価しながらです。
他方ではテレビの影響なのかは解りませんが、僅かな金額の支払いや処遇などに対して駆け引きをしてくる起業家が台頭してくるようになってきたのにはびっくりします。
素直に直接お願いすれば済むことなのに、確実に伝わることを意図して双方を知る人を介して遠まわしに言ってきたり、建前メールを送ってきたり関係ないことを持ち出したりしてきます。
よほど経済的にも精神的にも余裕が無いのか、事実を知らないとはいえ年輩経営者の観察力を甘く見ない方がいいと思います。
そんな駆け引きしてくる人には駆け引きのリスクと怖さを身をもって教えることもあります、建前で「~でも構いません」と言われれば「はい解りました、ではそうしましょう!」と、「すべてお任せします」なら「では、こうします!」と言われるままに一旦は最終決定にしてしまいます。
「そんなつもりではなかった」と後で言われても、こちらは真摯に向き合っているにも関わらず建前で対応しているのですから言わずもがです。
本心でなければビジネス合意事項に建前を言わなければよいのです、相手の気持ちをくすぐるような行為は感心しません。
本音と建前を使い分けること自体が信頼に値しません、そしてビジネスとは独り相撲ではなく必ず相手がいます、更には結果重視で如何なる結果も潔く受け入れなければならないのです。
誰でも認めたくない事実の一つや二つは持っています、私も事業が頂点に達した瞬間に、M&Aにより上場企業の傘下に入るなど予期せぬ不都合な事実は過去に幾らでもあります。
そんな時は人間の本性が出てしまいます。
多くの人は、「事実を認めたくない」という気持ちが引きずり困窮しても軌道修正する決断できない状況に陥ります。
経営者は常に潔く振る舞っていただきたいのです、その潔さが最終的に逆転ホームランで勝利を収めることができるのです。
不都合な事実を認めたがらない経営者の多くは土壇場で他者に責任を押し付け保身に走ります、これでは例え再起できたとしても結果的に人生の敗北者になります。
土壇場での振る舞いのカッコ悪さ、その後は誰もがまた一緒にやろうとは思いません。
経営者であるなら瞬間の事実の善し悪しではなく、起こった事実を潔く受け入れて未来にどう生きるかを考えていただきたいのです。
「成功」とはその瞬間の小さな事実などはどうでもよいのです、人生を通して「成功か否か」と評価されるべきものなのです。
ときどき「人の心って本当に怖い」という話しを聞くことがあります、従順だった社員が一夜にして反抗的になってしまった、スムースにいっていたビジネスパートナーがとんでもない裏切り行為をしたなど、その原因がどう考えても不可解なのだと言います。
こういう場合など自分では理解できない現象によく使われるのが「見えない力」という言葉です、冒頭の話しの他に何を考えているのか解らずに行動判断ができないときなどにも使われます。
ただ、私が思うに「見えない力」が実際に存在するのかはどうでもよいことであり、そういうところに責任を転嫁するような考え方がそもそも間違っているのではないかと思うのです。
人は意味も理由も無ければ行動しないのです、変わったのであれば変わる理由が必ずあります、それを自身が把握できずにいるだけです。
何かの結果は必ず何かの原因があるのです、経営者はまずはその原因を明確に見極めなければならないのです。
「見えない力」という言葉自体が、自分の把握・理解能力の無さを見えない何かに転嫁し言い逃れをしているにすぎないのです。
もう一つは「見えない力」を口にする人は他者が自分をどう捉えているのかを気にしている人であり、それを怖いと考えている人なのです。
「他者の心が解る」などと周囲に言いふらす人も同じことで、自身がそういうことが気になっているからに他なりません、もしくは目の前の人を信頼していないかです。
「心が解る」という一言で「私を甘く見ないで!」と言っているようなものです、多くは経験不足で誇るものを何も持ってない人に見られるのも面白いです。
人が何気に口にする言葉を拾うと何を意識しているのかを知ることができます、そして自分に後ろめたいことがなく人生を謳歌している人にとっては「見えない力」は興味の対象であっても恐怖の対象とはなりません。
だから、経営者なら「見えない力」とか「心が読める」とか、そういうことをあまり口にしない方が無難だと思うのです。
結果とはどんな事でもプロセスの善し悪しで決まってしまいます、ということはプロセスの状況を観て短期間に軌道修正できれば満足する結果を早期に出すことができるということです。
何時までも思い通りの結果を出せない人はこのプロセスの状況を素直に把握することができないか、もしくは把握していても軌道修正できないかのどちらかということになります。
周りの人を観察していていつも思うのですが、多くの人が50歳前後で自身の軌道修正の特性が固定されているように思います。
軌道修正が遅いか、それ自体をできない人はその後も一向に改善することはありません、そして結果とはこれまでの過程の集大成であり突然現れるものではないのです。
つまり結果が重要だということはそれまでのプロセスの善し悪しですべて決まってしまうと言っても過言ではありません、思ったような結果が出せない人はプロセスの段階で何かが間違っているのです。
常に結果を出す人は極めてプロセスの軌道修正が素早い人です、瞬間的に同時並行で複数事項を修正していきます。
この軌道修正での障害の多くは拘りやプライドです、そして自分の方法が正しいと思い込んでいる固定化した思考にあります、何れにしても自身のことは解らなくても周囲の人は冷静に他者の生き方を評価しているということです、人生そのものが日々軌道修正の是非を問われているのです。
成功する人とはそういう意味ではどんなことでも、どんな時にも些細な拘りやプライドを捨てて結果を予測して瞬間的に軌道修正できる人なのです。
カッコつけて拘りやプライドを通し続けた結果において職を失い一家離散、そしてホームレス、行きつくところは孤独死、これを讃えてくれる人はいるでしょうか?
私がよく言う「結果が重要、結果が全て」とはそういうことなのです、刹那なる時空間でのビジネスの善し悪しだけを指しているのではありません。
更に経営者であれば自身だけではなく、これを社員やパートナーにまで視野を広げて考えなくてはならない事項だと思うのです。
「核家族」という言葉も既に懐かしい感じがします、ここ数年の世の中の動きを見ればまるで核家族から更にそれぞれが分離して生活する「個の時代」を予見させられます。
テレビでは人知れず孤独の中であの世へ逝ってしまう「無縁死」が取りざたされています、身元調査しても何処の誰なのか特定できない人も年々増えてきているといいます、また「24時間以上人と会って会話をしたことが無い日が有る」という社会隔離生活者も特に高齢層では急増の一途だといいます。
その孤独な人たちが向かうところの一つはSNSの世界なんだそうです、子供や孫の写真を出してはいるものの裏にはどうしても孤独感が垣間見えてしまいます、言葉や文章でそんなことはすぐにも解ってしまいます。
SNSの中では現実の世界とは無関係に多数の人と文章による会話ができます、また自分が発信した情報に善し悪しは別にして何らかの反応もあり孤独さを紛らわすことができます、世代に関係なく目立つのは現実とは別の自ら作り上げた仮想空間の中で成功者やプチセレブとして発言できます。
現実を良く知る人に突かれると「セルフブランディング」だと言い張るのですが正直そんな演出は逆ブランディングです、つまり本当にビジネスに有益な人からは確実に距離を置かれてしまい益々社会から孤立することになります。
更に警鐘を鳴らさせていただけば、仮想空間でヒーローやヒロインを演出している人は現実世界を意識した途端に大きなギャップにより自身が望んだ結果とは裏腹に更に孤独感が強まるだけです。
私は現在の「個の時代」はまさにこのSNS社会が齎した悪しき産物だと考えています、便利さの裏には必ず伏兵が隠れているものです、リアルな人間関係が構築された後に情報開示や通知用にSNSは使われるべきだと思えてなりません。
現在はSNS離れが顕著化しています、理由の一つにはリアルでの状況を知っている人がSNSの世界で現実逃避している哀れな姿を見るに堪えられないからだと言います。
「リア充」(リアル充実=現実充実)という言葉がよく使われていた時期がありました、現実世界で充実している人ほどSNSを行うこと自体を嫌いになっていくのです。
逆に言えば、SNSでプライベート色の強い意味の無い情報を配信しないようになったらリアルが充実してきた証拠でありビジネスも上手くいっているのです。
ビジネスが上手くいっている人はビジネス仲間にプライベート情報で妙な誤解などが生じることを懸念するからに他なりません、例え開示範囲を限定しても誰がどのように見ているのか解らないのがSNSなのですから。
そして逆説的に言うなら、SNSをいつまでもやっているからリアルで充実した生活を送ることができないのです、SNSをやる時間が有るならリアルを充実させることに使うべきだと思えてなりません。
起業したのであれば、SNSで安直に集客しなくてもよい真のビジネスを見つけて他者を頼らず自立して強く生きていくことが肝要です、「SNSがこの世に無かったとしたら自分に何ができるのか?」、経営者と言うのであればこの課題と真摯に向き合ってほしいと思います。
最後にSNSをここで否定しているのではありません、経営者という括りの中でSNS考を示唆しているに過ぎません。