宇宙、つまり我々が住む3次元空間で最も安定した形は何でしょう?
数学の世界では2次元空間上(紙の上)という基本ルールがあります、ここでは3角形が安定している形として認識されています。
例えば三脚、これは地面が多少でこぼこでも安定します、でも地面が2次元だからこそなのです。
同様に地震対策として、歪み防止で入れる杭も柱と柱を繋ぎ3角形になるようにしています、しかしこれも1つの面に対してですので2次元といえます。
では、3次元(宇宙空間)では何角形が安定しているのでしょうか?
先に答えを言いますと、なんと6角形なのです。
蜂の巣の形をご覧ください、6角形が綺麗に並んでいます。
この6角形は三次元空間において、どの方向から力が加わっても全ての辺と接点に等しく力が分散する構造なのです。
しかも、これが複数集まった場合は更に複雑に分散し、また最も同型複数を相互結合しやすい形状なのです。
スペースシャトルや飛行機の羽の中や胴体にはこの蜂の巣構造(ハニカム構造)の補強版が入っています、ハニカム構造は軽くて最も強固な板を作ることができます。
自然界とは何とすばらしいのでしょう、これを知ってか偶然か計算なのか、ほとんどの物質の結晶構造が6角形で出来ています。
雪(水)の結晶、水晶などの石(ダイヤモンドなども)の結晶、そしてDNAの結晶構造も、つまり我々の肉体を構築するアミノ酸やたんぱく質も全て結合組織が六角形の組み合わせで成り立っています。
更に、以前から解っていたことですが突然のように妙な疑問が湧いてきました。
それは、6と12との関係です。
干支(十二支)・月・時間、すべてが12単位です。
ところで中国古代思想の「5行」は、何で宇宙の法則や物質を説いているのに「5」なのでしょう?
「5」では宇宙の謎を解くことはできません、何故なら5面体では3次元空間(縦・横・奥行きのそれぞれ+-で6極)を表す事が出来ないからです。
これらの疑問、私なりに考えた末にある結論を見出すことができました。
そして、「6」という数字の持つ魔力に魅せられました。
その謎解きこそが「運命波学」基礎理論の礎となったのです。
ゼロ学や四柱推命のロジックを解明していく中で、私の頭の中でオリジナルの理論がどんどん出来上がっていきました。
アインシュタインもまた、オリジナルの理論の確立には先人達の研究論文を参考にしました。
結果的にアインシュタインはノーベル賞を受賞しましたが、アインシュタインもまた弟子や他の科学者が自身の理論を基に別の理論を確立していくことを拒みませんでした。
現在の科学の多くは、多数の科学者たちの長年に渡る引き継がれたものだということをアインシュタイン自身も理解していたのです。
さて、こうしてオリジナルの理論がどんどん出来上がっていく中で、現在の「運命波学」の基礎理論が確立していきました。
この基礎理論とは「4+2=6」というもので、森羅万象全てのものは基本項目4+補助項目2の6つの状態から成り立っているというものです。
これを、生命体や自然などに応用してあらゆるものに当てはめて検証していきました。
例えば、血液型・DNAの構造・内臓の種類と機能・分子構造・原子構造と、面白いように全てが「4+2=6」の法則どおりの構造体だったのです。
こうした中、陽子を構成するクオークがそれまでの4つではなく新たに2つ発見され合計6種類であることが証明され、小林誠と益川敏英が揃ってノーベル賞を受賞というニュースが流れました。
そして、このクオークの構成もまた「4+2=6」種類であることが検証でき驚きを隠せませんでした。
更にこれを、五行思想や陰陽思想を取り入れて基礎理論化していったのです。
その後、「4+2=6」は実は「(2+1)×2」の「(陰陽+中庸)×陰陽」で成り立っているというところまで辿りつき、この理論はまだ出版し公開されていませんが「運命波学」から派生させた「陰陽バランス学」の基礎理論として確立させているところです。
この「陰陽バランス学」は、ビジネスや行動心理などにも応用できる学問として、「運命波学」と並ぶ2大学問として確立させていく所存です。
また、この「陰陽バランス学」から食と健康に関する項目に絞った学問として「陰陽バランス食養学」が先に確立し出版しています。
今後は、「運命波学」と並ぶ基本理論である「陰陽バランス学」の確立に向け尽力していく所存です。
ちなみに、「運命波学」は五行思想をベースにしており、「陰陽バランス学」は陰陽思想をベースにしている学問です。
この2つの学問を学び知る事で、目に見える物質的事象と目に見えない精神的事象の両面から捉えることができ、上手く使えばビジネスにプライベートに最強の武器と防具を得ることになることでしょう。
ところで何故私がゼロ学の基本ロジックを解明することになったのでしょうか?
2006年初頭、ある人を介してゼロ学開祖である御射山宇彦が生前にゼロ学を確立する際に記した大量の資料が私のもとに持ち込まれました。
当時、これらの残された資料を基に講師らによって理論のベースを解明しようと検証するものの、まったく意味が解らないということでした。
その資料にある計算式などを順に追っていくとある種のロジックであることが解りました、ここで私のアルゴリズマーという職業病が表面化し、「是非、私に解明させてください」と資料を預かりました。
更に奇しくも、その10年ほど前から中国とのビジネスをしていましたので、五行思想や陰陽思想という中国古来の学問に触れ独学で学んでいたこともこの解明には大いに役立ちました。
資料にある数式ですが、元々は御射山宇彦氏も電子工学系の人です、さっと目を通しただけで根底にある理論の概要が見えてきました。
特に、一緒についていた「振り子」のイラストが大きなヒントとなり、その数式が何を意味するのかはすぐに理解できました。
つまり、振り子を時間軸で伸ばすと、その振り子の先が描く絵は「正弦波」という自然界に存在するすべての波の原型となります。
各種の数式は、この正弦波のX軸を12で分解した際のY軸の値を得るための計算式だったのです、この発見によりそれ以外の多くの資料にある数式も全て解明できました。
更には、四柱推命などで用いられる数字の書いてある表、これもどういう計算から成り立っているのかを逆アッセンブル方式で全ての謎が分析できました。
そして、これに独自の理論と根拠を示し出版したのが「運命は波で解ける」という書籍です。
今では絶版となっている書籍ですが、中古市場での最高値では6万円という価格がついており正直私自身が驚くばかりです。
ゼロ学だけではなく、四柱推命など五行から派生した占術すべてに通じる理論を解明した書籍です、したがって占術を学ぶ人にとっては必須な書籍なのかもしれません。
「運命波学」の確立は、まさに「運命」に操られたかのような状況で誕生いたしました。
運命波学誕生前に私が執筆した書籍、文化勲章受章者の御射山宇彦(故人)が独自に確立したゼロ学の基本ロジックを解明した「運命は波で解ける」の出版は2007年9月のことでした。
その前年の2006年のクリスマスの夜、私は25年間常に常勝を続けてきた事業家として初めての挫折を味わい、メイン法人が上場企業の傘下に入るという事業家人生の苦渋を味わったのです。
上場企業の傘下に入ったその後、これまでの忙しさが嘘のように自分の時間がたっぷりできました。
奇しくも、天から貰ったこの有り余る時間の全てを使って、2006年の5月から解明を続けていた先述のゼロ学理論を生業であるアルゴリズム分析によってその基本となるロジックを完全に解き出版するに至ったのです。
逆に言えば、先述の挫折が無かったらゼロ学を解明し出版することも、そして「運命波学」も生まれていなかったかもしれません、当時の私にはこれを解明しまとめあげるほどの時間は皆無でしたから。
その時、挫折は天が私に「新たな学問を樹立せよ」と時間を与えたのだと思ったのです。
その後、ゼロ学の基本アルゴリズムに加え陰陽五行をベースとして独自の理論を展開し確立した新たなロジックを元に、最新の科学的根拠を取り入れた「運命波学」の基礎理論が完成しました、そして翌2008年6月に「運命波学概論」を出版し「運命波学」が世に産声を上げたのです。
「運命波学」の理論確立から波学年運1ターンの12年が経過し、こうして誕生秘話が書けるのも何か大きな運命を感じざるを得ません。
そして、「運命波学」の運命リスムの法則通りに私の人生は見事に推移しています。
自身の波を知って自然に合わせて乗っていく、これが「運命波学」の成功法則です。
それを知らずに思い付きだけで過ごすのか、知って積極的に活かすのか、この差は歴然としています。
人生は長いようで短く、短いようで長いものです、天から与えられた限りある時間、それを誰と何をして過ごすのか、これによってその後の人生が180度大きく変わっていくのです。
上手くいかないのはその時に選ぶ人と選ぶ行動を間違えているだけです、間違いのない状態の継続、これによって結果を「待つ」だけで成功という状況が天の時がくれば極自然に生まれてくるだけの話しです。
「運命波学」は、そのタイミングも、自身の使命も知ることができる学問です。
日本語で他国の言語に比べて独特なことがまだまだあります。
その中で、とりわけ凄いと感じるのが「一人称」と「二人称」の多さです。
英語を初め他国では一人称は1つか多くても数種類です、判りやすいのは英語の「I」の一つだけです、韓国語も複数あるのですが3つほどです。
では日本語の場合はどうでしょうか?
広辞苑で調べた人がいます、なんと145種の一人称が載っていたそうです。
「私(わたし)」・「私(わたくし)」・「わし」・「俺」・「自分」・「小生」・「我」・「我輩」・「拙者」・・・、切がありません。
更に、方言などを入れるとこの数倍は在るのではないかと想像できます。
何故、こんなにも日本語は一人称が多いのでしょうか?
これは、辞書を読んでいて確信できましたが日本人というのは相手によって自分を対等関係にしたり、目下や目上などにしたり、自分を相手に合わせて変化させる国民性だったのです。
例えばアメリカでは一人称は「I」の一つだけです、そういう意味では家族も会社でも皆友達と同じように名前でしかも呼び捨てで呼びます。
流石にビジネスでは最初は「Mr.」を付けていますが、慣れてくるともう互いに呼び捨てです、日本人には慣れるまでに流石に違和感があります。
日本人の相手を敬ったり身近に感じさせたりと、相手や距離によって微妙に自分を合わせていく奥ゆかしさ。
それが日本人であり、日本語とはそこから生まれた言語文化なのです。
相手を思いやることが美学と考えてきた日本人のワビサビ、失ってはいけないと思うのは私だけでしょうか?
日本語を無意識に使っているとその特異性を改めて考えることもありません、しかし日本語を海外からみると実に特異な言語であると思えるのです。
その生まれた背景や文化、本当に再度心に留めて人と接していきたいと思うのです。