ところで何故私がゼロ学の基本ロジックを解明することになったのでしょうか?
2006年初頭、ある人を介してゼロ学開祖である御射山宇彦が生前にゼロ学を確立する際に記した大量の資料が私のもとに持ち込まれました。
当時、これらの残された資料を基に講師らによって理論のベースを解明しようと検証するものの、まったく意味が解らないということでした。
その資料にある計算式などを順に追っていくとある種のロジックであることが解りました、ここで私のアルゴリズマーという職業病が表面化し、「是非、私に解明させてください」と資料を預かりました。
更に奇しくも、その10年ほど前から中国とのビジネスをしていましたので、五行思想や陰陽思想という中国古来の学問に触れ独学で学んでいたこともこの解明には大いに役立ちました。
資料にある数式ですが、元々は御射山宇彦氏も電子工学系の人です、さっと目を通しただけで根底にある理論の概要が見えてきました。
特に、一緒についていた「振り子」のイラストが大きなヒントとなり、その数式が何を意味するのかはすぐに理解できました。
つまり、振り子を時間軸で伸ばすと、その振り子の先が描く絵は「正弦波」という自然界に存在するすべての波の原型となります。
各種の数式は、この正弦波のX軸を12で分解した際のY軸の値を得るための計算式だったのです、この発見によりそれ以外の多くの資料にある数式も全て解明できました。
更には、四柱推命などで用いられる数字の書いてある表、これもどういう計算から成り立っているのかを逆アッセンブル方式で全ての謎が分析できました。
そして、これに独自の理論と根拠を示し出版したのが「運命は波で解ける」という書籍です。
今では絶版となっている書籍ですが、中古市場での最高値では6万円という価格がついており正直私自身が驚くばかりです。
ゼロ学だけではなく、四柱推命など五行から派生した占術すべてに通じる理論を解明した書籍です、したがって占術を学ぶ人にとっては必須な書籍なのかもしれません。
「運命波学」の確立は、まさに「運命」に操られたかのような状況で誕生いたしました。
運命波学誕生前に私が執筆した書籍、文化勲章受章者の御射山宇彦(故人)が独自に確立したゼロ学の基本ロジックを解明した「運命は波で解ける」の出版は2007年9月のことでした。
その前年の2006年のクリスマスの夜、私は25年間常に常勝を続けてきた事業家として初めての挫折を味わい、メイン法人が上場企業の傘下に入るという事業家人生の苦渋を味わったのです。
上場企業の傘下に入ったその後、これまでの忙しさが嘘のように自分の時間がたっぷりできました。
奇しくも、天から貰ったこの有り余る時間の全てを使って、2006年の5月から解明を続けていた先述のゼロ学理論を生業であるアルゴリズム分析によってその基本となるロジックを完全に解き出版するに至ったのです。
逆に言えば、先述の挫折が無かったらゼロ学を解明し出版することも、そして「運命波学」も生まれていなかったかもしれません、当時の私にはこれを解明しまとめあげるほどの時間は皆無でしたから。
その時、挫折は天が私に「新たな学問を樹立せよ」と時間を与えたのだと思ったのです。
その後、ゼロ学の基本アルゴリズムに加え陰陽五行をベースとして独自の理論を展開し確立した新たなロジックを元に、最新の科学的根拠を取り入れた「運命波学」の基礎理論が完成しました、そして翌2008年6月に「運命波学概論」を出版し「運命波学」が世に産声を上げたのです。
「運命波学」の理論確立から波学年運1ターンの12年が経過し、こうして誕生秘話が書けるのも何か大きな運命を感じざるを得ません。
そして、「運命波学」の運命リスムの法則通りに私の人生は見事に推移しています。
自身の波を知って自然に合わせて乗っていく、これが「運命波学」の成功法則です。
それを知らずに思い付きだけで過ごすのか、知って積極的に活かすのか、この差は歴然としています。
人生は長いようで短く、短いようで長いものです、天から与えられた限りある時間、それを誰と何をして過ごすのか、これによってその後の人生が180度大きく変わっていくのです。
上手くいかないのはその時に選ぶ人と選ぶ行動を間違えているだけです、間違いのない状態の継続、これによって結果を「待つ」だけで成功という状況が天の時がくれば極自然に生まれてくるだけの話しです。
「運命波学」は、そのタイミングも、自身の使命も知ることができる学問です。
日本語で他国の言語に比べて独特なことがまだまだあります。
その中で、とりわけ凄いと感じるのが「一人称」と「二人称」の多さです。
英語を初め他国では一人称は1つか多くても数種類です、判りやすいのは英語の「I」の一つだけです、韓国語も複数あるのですが3つほどです。
では日本語の場合はどうでしょうか?
広辞苑で調べた人がいます、なんと145種の一人称が載っていたそうです。
「私(わたし)」・「私(わたくし)」・「わし」・「俺」・「自分」・「小生」・「我」・「我輩」・「拙者」・・・、切がありません。
更に、方言などを入れるとこの数倍は在るのではないかと想像できます。
何故、こんなにも日本語は一人称が多いのでしょうか?
これは、辞書を読んでいて確信できましたが日本人というのは相手によって自分を対等関係にしたり、目下や目上などにしたり、自分を相手に合わせて変化させる国民性だったのです。
例えばアメリカでは一人称は「I」の一つだけです、そういう意味では家族も会社でも皆友達と同じように名前でしかも呼び捨てで呼びます。
流石にビジネスでは最初は「Mr.」を付けていますが、慣れてくるともう互いに呼び捨てです、日本人には慣れるまでに流石に違和感があります。
日本人の相手を敬ったり身近に感じさせたりと、相手や距離によって微妙に自分を合わせていく奥ゆかしさ。
それが日本人であり、日本語とはそこから生まれた言語文化なのです。
相手を思いやることが美学と考えてきた日本人のワビサビ、失ってはいけないと思うのは私だけでしょうか?
日本語を無意識に使っているとその特異性を改めて考えることもありません、しかし日本語を海外からみると実に特異な言語であると思えるのです。
その生まれた背景や文化、本当に再度心に留めて人と接していきたいと思うのです。
フランス語において、他国語に比較して格段に種類が多い単語のカテゴリーは「味」や「匂い」です。
フランス料理のソースやワインの微妙な味や香りの違いの表現の多さには驚きます、さすがに香水の原料を数十種類も混合させて作る国だけあります。
こういった言語が創出される背景は、フランスという国の文化と照らし合わせると納得できます。
日本語にも他国に比較してダントツに多いカテゴリーが在ります。
その一つは、「感情」など心の状況を表す単語です。
どこの国の言語にも在る笑う・泣く・怒る・悲しむなどは当たり前として、日本語独特の微妙な心を言い表す単語が星の数ほど在ります。
これらの単語は他国の言語で翻訳すると1対1では翻訳できずに、単語の組み合わせや熟語を使った翻訳となってしまいます。
例えば悲しい心の状況では、「物悲しい」、「空しい」、「切ない」などです。
またニュアンスは解るのですが、正確にどういう心境なのか他の言葉で説明するのは難しい言い方も在ります、例えば「ワクワクする」や「ウキウキする」などです。
他にも考えてみてください、おそらく100種はすぐに超えてしまいます。
これほどの心の状況を示す単語が多い言語も大変珍しいのです。
日本人そして日本の文化、言語からみると日本人は心や気持ちをとても大切に扱っていることが解ります、これが日本の「ワビサビ」というものです。
嫌な事件が多いです、日本人の持つ貧しくも凛とした他者を思いやる古き良き時代はいったい何処へ行ってしまったのでしょうか?
そして、「他者を思いやる気持ち」を最重要としたした日本文化はこの先どうなってしまうのでしょうか?
日本語は、世界的に見ても文法も言葉の要素もかなり独特です。
例えば、文法はモンゴル語や韓国語とほとんど同じなのですが否定・過去完了・未来形などの方法や表現が異なります。
我々日本人は生まれながらに自然に日本語を使っています、そして「日本語という独自の文化によって思考もその方向へ傾いている」、と思うところが多々あります。
この世界的に見て独自の言語システムを持つ日本語について、波学的思考の観点からお話ししたいと思います。
「話は最後まで聞くものだ」、よく聞く言葉です。
確かにマナー的にも重要なことなのですが、それ以上に日本語という言語システムそのものが持つ特異性がそうさせているのです。
日本語というのは、使いようでは非常に便利な言語でもあります。
例えば、「私はこれに関しては賛成・・・」というところで相手の顔色などを見ながら話の最後の最後で、「・・・です」とか「・・・できません」などと可否を決定することができるのです。
これはビジネス上では非常に有効な言語であるとも言えます、そして世界を見ても最後の最後に意思決定を表現できる言語は唯一日本語だけです。
英語などでは最初に肯定や否定が解ってしまうので、最後まで聞くまでもなく判断できてしまいます。
また、同じ文法圏の韓国語でさえ、動詞の最初で否定しますから、これも途中で解ってしまい最後まで聞かなくも大筋は解ります。
このように日本語では特に、途中で相手の話の腰を折ってしまうと、相手が本当に言いたいことが解らず本心を聞く機会を失ってしまうのです。
更に通常の日本人は最後に重要な話を持ってくるので、その結論を言う前に遮断され「最後まで聞けよ!」と大いに憤慨されることもあります。
また、「私はこれこれの理由で反対です、しかし今回だけは状況を考えて賛成します」という遠まわしな言い方をすることも日本人の会話には多く見られます。
これが日本人特有の曖昧文化の一つかもしれませんが、この場合など途中で「何でですか!」と言ってしまえば相手は同調しているにも関わらず敵対視しているように感じます、折角賛成と考えていても感情的に反対に回ることすらあります。
日本語で会話する際には、特に相手の本心を真に聞きたいと思うなら最後まで話を聞くに限ります。
また、自分から話すときにはタイミングを考えることが肝要です。
更に、正確な情報を得るという目的に照らし合わせてみても、話の途中で意見を言ってしまうと相手の本心が聞けないばかりか情報そのものが曖昧になってしまうのです。
日本語とは「落ち着いて相手の話を最後まで聞ける謙虚な姿勢を美学とする言語」、そんな文化から派生した言語であることを決して忘れてはいけません。