孔子論語の中で「お人よしは害を及ぼす」と明言しています、これは「人は善いが結果的に悪い人になってしまう可能性がある」ということを示しています。
さて孔子は、何故「お人よし」を災いを及ぼす人であり害を与えると言っているのでしょうか?
「お人よし」な人の特徴を考えれば解りやすいかもしれません、「お人よし」という結論に至る人とは「お願いごとを断らずに気前よく引き受ける」、「本来なら付き合うべき人でないのに隔たりなく人付き合いをする」などの特徴があります。
しかし、これらの行動は上手くいっている平和な時には評価される行為なのですが、一変して事が上手くいかなくなると全てが「無責任な人」、「信用ならない人」、「自分勝手な人」に変わってしまうのです。
状況とは刻々と変わるものです、例えば安請け合いしてそれが達成できなかったときはどうなるでしょうか?
頼んだ方は信用して待っていたのに期日になっても連絡が取れない、やっと連絡が取れたとしても「何とか頑張ってます」の一言で他の方針へ移行もできなくなってしまうのです。
普通に考えると「お人よし」と言うのは好評価されるべきはずです、しかし利害関係や信頼関係などが常に付きまとうビジネスの世界に入ればそれは害になるということなのです。
ビジネスでは約束したことの絶対的実行と結果と正確な情報発信が最重要であり、どれほど頑張っているかなどは評価には値しません。
それを善しとするならば、それはビジネスではなく利益活動を放棄した自分勝手な趣味となるのです。
趣味でやっている人と、常に周辺パートナーや社員の生活を抱え責任ある行動と結果を出さなくてはならない経営者はとても真剣なお付き合いはできません。
本来は良いことも視点変わると一変して悪くなるという典型的な例が、この「お人よし」ではないでしょうか。
私はそのような人は嫌いではありません、プライベートな利害関係のない世界では楽しく呑める人だと好意的に見ることができます。
しかしビジネスではとても組めないし、組むとしたら責任範囲を限定した付き合いを考えなくてはならないでしょう。
社員が増えてくると、勘違いしやすいのが担当や役割分担という名目での経営者の責任逃れです。
正直な話し「社員に任せているから」というのは経営者の逃げに過ぎません、本音は面倒くさいだけなのです、そして自分は動きやすくストレスの無い営業とか技術に逃げ込むのです。
経営者がやってはいけない事、それは自身の役割を作ることです。
これは社員が何人いても上場企業であろうが同じことで、全ての部署での最高責任者は経営者なのです。
部長や課長は経営者の権限の一部を委任しているに過ぎません、事が起これば経営者自ら責任を全うしなければならないのです。
役割は社員の特権です、社員は任せられた事を粛々と行うことで全社が回るのです、そして経営者の役割は最高責任者ということになります。
特に会社員時代が長い起業家に多い勘違いがこれかもしれません、経営者はあくまでも経営者であって社内の役割分担に自身を入れてはいけないのです。
経営者が他者に任せていいもの、それは決算申告時の税務処理だけです、これは国で定めた義務である納税を行うために国から役割を持たされた税理士のお役目だからです。
しかし会社のお金の流れの把握や資金移動などは、方法は別にして全て経営者が把握していなければなりません。
「経理に聞かないと解らない」、そんな経営者が昨今ではなんと多くなったことか。
人はそれぞれに個性があります、それにプラスしてどうしても超えることができない限界点というべき個性の壁を持っています。
例えば体力は判りやすくデーターで表せます、トップクラスの陸上選手でさえどんなに頑張っても現時点で100mを9.5秒以下で走ることは不可能です。
この場合は明らかに無理な目標設定をせずに済みます、勿論高い目標を置くことは重要ですが無意味なチャレンジで身体を壊すこともありません。
しかし経営能力や思考など、データーでは正確に表せないカテゴリーではどうでしょうか。
多くの人は、自身の限界点をはるかに超えたところに高い目標を置いているのではないでしょうか。
更には自分の持つ限界点でさえ解らない人もいます、自分には到底できないことに対して無意味に無理を通しています。
起業すると、成功している人を見ては自分も同じようにできると勝手に思い込んでしまうのも頷けます。
これはスポーツの世界と同じで経営にも当然個性が出るのです、そしてその人の限界点も確実にあるのです。
これほど頑張っているのになぜ上手く事業が回転しないのだろうかと嘆くことも然り、しかしその前に自分の能力を正確に把握することが肝要です、多くの経験を通して限界点を見つけることです。
そして、無意味に自分ができないことに対して無謀なるチャレンジをしないことです。
記録を出したりメダルを取ることだけがスポーツではありません、記録やメダルとは無縁でも感動を与えてくれるスポーツ選手は沢山います、そういう人は皆から支持され自身も幸せです。
経営も同じだと思います、他者へのアピールや見栄で頑張るのは人生においては何の意味もありません、自分が満足するだけで周囲は嘲笑しても評価はしないものです、他者を意識している時点で既に自分に無理をしていることを察するべきなのです。
「まあ何とかなるさ、時が経てば全てが丸く収まる」、こういうお気楽な人をときどき見かけます、しかし多くの場合は期待に反して最悪の状況を迎えてしまうことになります。
「お気楽主義」とか「プラス思考」と言えばそうなのですが、何故この言葉とは裏腹に問題が解決するどころか更に深刻な状況を迎えるのでしょうか?
そこには、大きくその人の心理的なものを見て取れます。
「まあ、何とかなる」という時点で自分の過ちをを擁護してしまっています、つまりそう考えることで一種の逃げを作っているのです、なぜならその方が気持ちが楽になるからに他なりません。
そういう人は自分で動かずに誰かが助けてくれるのを待っています、でも決して思ったような良い状況にはなりません。
もし今までこれで上手くいっていたとしたらラッキーだっただけです、でもこういうことはそう長くは続くものではありません。
若い時には、「まだ若いから仕方ない」と周囲も応援に似た感覚で許してしまうケースもありますが一定の年齢になればそれは通じません。
厳しいようですが、問題解決には逃げずに自ら潔く覚悟を決めて行動しなければ解決の糸口さえ見つかりません。
時間だけが刻々と過ぎていくだけです、そして深刻さは時間とともに増していくのです。
上手くいってない時は、「何とかしなくては」という強い気持ちを継続して持って欲しいものです。
こんな時代はみんな厳しい中で逞しく生きています、辛く苦しいのは自分だけではありません。
自分で選んだ方法や道が正解かどうかなんて誰にも解りません、ビジネスでは人事・営業戦略・経営方針など企業には多くの決定すべき項目があります。
最終的には最高責任者である経営者が決定することになります、しかしそれが正解かどうかはその時点では誰にも解りません。
プライベートでは進学・就職・結婚と「人生の岐路」と言うべき多くの選択すべき時があります、その時にどれかを選択するわけですが選択された方法や道が正解か否かなんて誰にも解りません。
では正解とは何でしょうか、それは選んだ方法や道が自分でも周囲にも「あの選択は正解だった」という結果を残すことです。
つまり正解の本質とはあくまでも結果なのです、決して決断した方法や過程ではありません。
一度選んだら一切悩まないことが肝要です、そして選んだことを継続させることに集中し結果を出すことです、誰からも「正解だった」と言われるように悔いを残さずにやるべき事を必死にやって結果を残すこと、これが最も尊い正解なのです。