2024年9月23日 07:00
「価値観」という例を出してきましたが、運命波学では「価値観」と呼ばれる殆どの本質は実のところ別の感覚からきているのではないかと考えているのです。
「価値観」とは即ち、金銭感覚・哲学・理想など要はその人の個性といっても過言ではありません。
では何故人は、「価値観の相違」という言葉を使うのでしょうか?
ビジネスで縁を切るような時にも「価値観の相違はビジネスの方向も違ってきます、方向が違う企業同士で上手くいくとは思えません」などと都合のよいことを言います。
また、同様にプライベートでは別れの理由付けの言葉として使われます、しかしその具体的な中身については誰も触れていないのが事実としてあります。
本当のところは何なのかも判らないのに、相手に「価値観の相違」と言われると何も言えなくなってしまうし納得せざるを得ないというのも事実ではないでしょうか?
運命波学では、「価値観」の本質は個性の思考そのものだと結論付けています。
つまり、「価値観の相違」を使う時には単純にその人やその物が「好きではない」ということではないでしょうか?
でもはっきりとは言いにくい、そこで出てくる言葉が「価値観の相違」となるのだと結論付けているのです。
いろいろ研究した結果、「価値観」とは曖昧な日本語の中にあって極めつけの曖昧な日本語なのではないかと思います。
でも誰もそれに疑問を持ちません。
そうなのです、極めつけの曖昧な言葉でもあり極めつけの「便利」な言葉でもあるからなのです。
それともう一つ言うと、本当に信頼していたり好きな対象に「価値観」などという意識を持つことはありません。
私が思うに、「価値観」などという意識そのものが高次元の意識のように思えて実のところ極めて低次元な意識ではないかと思うのです。
だから個人的には、何かにつけて「価値観」という言葉を使う人を心から信頼することはできないのです。