前回はお金の絶対値で思考する話しを致しましたが、今回は時間感覚を「絶対値」ではなく「相対値」で考えなくては危険という話しです。
例としてアインシュタインの逸話があります、アインシュタインは町の人から相対性理論の質問を受けた時にこんな言葉を冗談交じりに返したそうです。
「もし男の子が大好きな女の子と1時間並んで座っていたらその1時間は1分ほどに感じるでしょう、しかしストーブの真ん前に坐ったらその1分は1時間に思えるでしょう」と。
相対性理論からはかけ離れているようでいて実はこの話の本質は別の所にあります、つまり時間感覚というのは「極めて相対的」だということなのです、楽しい時間はあっという間ですが苦しい時間はいつまでたっても進みが遅く感じるのです。
確かに自分にとってスケジュールを立てるときの1時間は「1時間」という量でしかありません、 でもその1時間がどのような時間感覚を持って過ごされるのかについては考えることはしません、同様に集中しないとできない事と考えずともできる事でも時間の進み具合は大きく異なります。
設計や企画を立てるような「頭を使う仕事」は時間が経つのは恐ろしく速いものですが、 ルーティング作業は時間が経つのがゆっくりに感じられるはずです、脳の処理時間と処理能力は反比例する傾向にあります。
もし時間を絶対量だけで考え作業量によって均等に仕事時間を割り当ててしまうと、 一方では足りなくて他方で余ってしまうことが起きてしまいます。
そして「どこかで辻褄が合えばいい」という考え方をしてしまうと、 どこで時間がかかっているかを見極められず どこの作業効率を上げることができるかなどの改善点も見出せなくなってしまいます。
こういった意味で時間というのはお金の絶対値に対して逆の「相対値」で思考し管理する必要があるのです、自分が計画したスケジュールを守れない人はこの自身の時間感覚が正確に処理できていない証拠です。
社会人にとっては致命傷とも言えますが、長年の記憶によって形成された脳機能を正常化することは極めて難しいと言われています。
塩麹(しおこうじ)が空前のブームを巻き起こしたのはほんの数年前の話です、それが既にデパートには「発酵食品」コーナーが出現しています。
発酵食品といえば漬けものです、50年前の日本では普段家で食べる副食の多くは発酵食品であり熱を通さずに発酵をそのままに食していました、代表格は「糠漬け」や「味噌漬け」ですがキュウリ・大根・カブなどほとんどの野菜は漬けものにしていました。
考えたら昔の人は毎日発酵食品をそのまま食べていたのです、食べ物だけではなく甘酒や麹で醗酵させた米ジュースなども普段から飲んでいました、味噌や醤油なども買うのではなく作ってはそれを使っていました。
そういえば世界中で古代から伝わる家庭療法の多くは科学的にも医学的にも実に理にかなっているという研究結果が近年になって報告されています、長い期間をかけて定着した療法、そこには実際に身をもって工夫されながら試されてきたという大きな事実という実績が在るのです、
理屈までは解らないが「効いた」という根拠があるのです、一つの「理論や理屈よりも経験が全て」という大きな根拠であり確証でもあります。
ビジネスも実はこれに近いものがあります、その企業や人の商品やサービスを真剣に説明するよりも実績や根拠を示せせば説明の必要はありません。
これが本当の意味でのブランディング以外の何物でもありません、逆に言えば実績や根拠の示せない商品やサービスを説明するだけの人には近づくなということです。
元来、人間の目は脳の機能によって近視眼的にできています、このため誰しも目の前の状況に対応することに全力を尽くしてしまい「気が付けば状況に流されていた」などということが起り得るのです。
目先の動きばかりを気にして大局観を欠いてしまえば大きな流れを捉え損ねて足元をすくわれてしまうのは至極当然のことです、「木を見て森を見ず」という諺どおり目の前の事象に囚われていては翻弄され大きな流れを見失ってしまいます。
主流ともいえる大きな流れを捉え損ねると間違った方向に流されているのにも気付かず取り返しのつかない致命傷を受けてしまいます、このような事態を防ぐためにも大局や大きな流れともいえる主流は常に把握している必要があります。
その一方で目の前で起こっている事実がこれからの主流を作ることもあります、森ばかり見て木を見ていないと上から俯瞰して見た時には美しい森に見えても木の根元の方では腐敗が進んでいるのを見落としてしまいます。
また木ばかり見て森を見ないと自分の周りでは異常が起こっていても森全体からすれば大したダメージではないことなどを見誤る可能性があります、木に張り付いて目の前を見る「虫の目」と上から森全体を俯瞰してみる「鳥の目」、ビジネスにはこのどちらも重要です。
つまり大局を捉えるためには状況に身をおいて今起こっている「事実」を捉える視点と、それら一つ一つを客観的に俯瞰して見渡すための両方の視点が必要なのです。
どちらが欠けても正確な状況把握はできません、この遠近の視点バランスをいかに保てるかこれが成功する人としない人との分かれ道ともなるのです。
ときどき「事業スキームやサービスメニューを真似されて困る」という相談がありますが、そもそも何故すぐに真似されてしまうのでしょうか、そして真似されることはマイナスなのでしょうか。
厳しいようですがすぐ他者に真似されるということはそもそもその程度のものなのです、そして自身が行っている事もきっと何処からか持ってきたスキームに若干のアレンジを加えた程度なのではないかと推測できてしまいます。
本当にその人が独自に編み出しその人でしか価値を生み出せないスキームやメソッドであれば簡単には真似できません、すぐ真似されるというのは誰でもが簡単にできる事、つまりはそこにオリジナリティを追求できるはずもないのです。
そういうものであれば逆に多くの人が真似して参入してきた方が市場が大きくなって喜ばしいと思います、ブログも然りで真似される裏には真似する人がブログを読んでくれ表現方法や言葉に共鳴したということなのです。
真似されるということは真似するに値する人だという証明でもあるのです、つまり真似されたら本物であり喜ばしいことだと思うのです、そして事業であればオリジナリティを追及して他者には簡単には真似できない完璧なスキームやメソッドを作り上げることです、そうすれば「真似される」なんていう心配は起きません、自分しか価値を生むことが出来ない方法、これこそが本当の価値ビジネスというものです。
人は無意識のうちに「成長したい」と願っています、今できることをもっと効率的にできるようになりたいと思っているし高いスキルを身につけたいとも思っています、人としてステップアップするためには当然の願望なのだと思います。
企業も同じで経営者は今の事業をもっと大きく育てたいと思っているし、たくさんの利益を得たいと考えさまざまな改善案や顧客ニーズを取り込むように尽力するものです、その結果事業は成長し利益も上がっていきます。
さてここで向上を考えても人も企業も「変わりたい」とはなかなか思わないのではないでしょうか、変身願望など確かに違う自分への憧れはあっても自分を変えたいと思う人はあまりいないように思えます、むしろ「変わりたくない」と、どこかで防御線を張っている人のほうが多いかもしれません。
しかし世の中は常に変化しています、しかもインターネットの普及により変化のスピードは加速する一方です、当然顧客ニーズも時代の速さに合わせて変化が速くなってきています。
ここで「成長」ということについて立ち返ってみると成長しきった会社はどうなっているでしょうか、成長しきった結果「老体」になってしまい完全に市場からはじき出されてしまっている感があります。
世界的にも優秀な社員が揃っていた大企業であるにも関わらずこの事態を予測できていませんでした、企業が勝ち残り生き残っていくためには「成長」するだけではダメなのです、時代の変化に対応し常に新しいものを「生み出し」てゆく進化が必要なのです、進化なき人も企業も、成功を望むべきではありません。