ステーブルコインを語るとき、日本と海外ではそもそも前提が違います。 海外では、USDT(テザー)やUSDC(サークル)といった米ドルに連動するトークンが典型的なステーブルコインとして流通しています。 これらは「1コイン=1ドル」での償還(払い戻し)を前提としており、発行主体がドルや米国債などの安全性の高い資産を保有することで価値を安定させる仕組みです。 USDTやUSDCはビットコインやイーサリアムと同様に暗号資産取引所に上場し売買の対象となっています。 そのため海外では「ステーブルコイン=暗号資産の一種」という理解が一般的で、実際にUSDTやUSDCはグローバルなクリプト市場での送金や決済のインフラとして機能しています。 その規模はすでに数百億ドル規模に達しており、米国やEUでは「もはや、これは金融インフラなので銀行並みに規制すべきだ」という議論が公式に進められています。※1
※1 Pete Schroeder and Michelle Price, Reuters, Nov. 1, 2021
一方、日本はまったく異なるアプローチを取っています。 日本は2022年の資金決済法改正(2023年6月施行)でステーブルコインを「電子決済手段」として法制度に取り込みました。 ここではこうしたトークンを発行できる主体を、銀行、資金移動業者、信託会社といった、すでに金融庁の監督下にある事業者に限定しています。 さらに電子決済手段は「1円=1トークン」での発行と償還(払い戻し)を前提とし、その裏付けとなる円や国債などの資産は分別して安全に管理することが求められています。※2
※2 金融庁「第5回 金融審議会 資金決済制度等に関するワーキング・グループ 事務局説明資料」(2024年11月21日)
つまり日本は「ブロックチェーン上で24時間動く円」を制度的に許容しつつも、それを"投機目的のコイン"ではなく、"正式な決済インフラ"として扱うことを最初から宣言したということになります。 この新しい枠組みこそが「電子決済手段」です。 Suicaなどの従来型プリペイド残高は、基本的には日常利用を想定したチャージ残高であり、自由な現金化や即時の払い戻しを前提としていません。 一方で電子決済手段型のステーブルコインは、1円=1トークンという価値を維持したまま円に戻せる(償還できる)ことまでが制度として組み込まれています。 ここは日本独自の大きなポイントです。
この枠組みの中で登場したのがJPYCです。JPYCは自ら「JPYCは暗号資産ではありません」と明言しており、従来の「JPYC Prepaid」は"前払式支払手段"ーーいわばプリペイド型の日本円トークンとして運用されてきました。※3 Suicaのイメージに近く、あらかじめチャージした範囲で使う「先払いの残高」という考え方です。 その後の制度整備に合わせJPYCは「電子決済手段」モデルへと移行し、資金移動業型のステーブルコインとして1JPYC=1円で発行・償還(払い戻し)ができる形をとっています。 ここで重要なのは、JPYCが「価格が上がる/下がる資産」として売買される想定ではないという点です。
※3 JPYC公式サイト「JPYC | エンをつなげる日本円ステーブルコイン」
USDTやUSDCとJPYCのもっとも大きな違いは、この「流通のしかた」と「お金に戻すしかた」にあります。 USDTやUSDCは世界中の暗号資産取引所に上場しており、板に並んだ価格が日々わずかに上下します。 投資対象・投機対象としての性格がある一方で決済にも使われる、という二重の顔を持っています。 これに対してJPYCはそういった市場での売買を前提にしていません。 ユーザーは公式プラットフォームである「JPYC EX」において本人確認(KYC)を行い、自分のウォレットアドレスを登録したうえで日本円を銀行振込すると、その金額と同額のJPYCが1:1で発行されます。 逆に保有しているJPYCを返すと同額の日本円が銀行口座に払い戻されます。 つまりJPYCは「値上がり益を狙って売る・買うコイン」ではなく、「円をブロックチェーン上で即時に動かすためのデジタル円残高」という立ち位置なのです。
同じ方向性はメガバンク側にも見られます。 日本の大手銀行グループはJPYCと同様に「投機ではなく、24時間動く円の決済インフラ」をつくろうとしています。 三菱UFJ信託銀行が進める「Progmat Coin」という仕組みは、1コイン=1円の価値を信託スキームで裏付けたデジタル円を発行し、企業間の資金決済、証券の受け渡し、それから国際的な企業間送金までを24時間即時で回すことを目的としています。 さらにこの構想は三菱UFJグループ単独の取り組みにとどまらず、三菱UFJ・三井住友・みずほといったメガバンク連合で、まずは大企業グループ内の資金移動や法人間の支払いに導入し、将来的には「デジタル円キャッシュ」を業界共通の標準インフラにしていくという方向性が公表・報道されています。※4
※4 Mitsubishi UFJ Trust and Banking Corporation / JPYC Inc. / Progmat Inc., Press release, Nov. 28, 2023
まとめると、海外ではステーブルコインは「クリプト市場で流通するドルのデジタル版」という性格が強いのに対し、日本では「銀行や資金移動業者など、規制当局の監督下にある事業者が発行する法に基づいたデジタル円」という位置づけが明確になっています。 JPYCはこの日本モデルを代表する存在であり、ステーブルコインではあるものの法律上は暗号資産ではなく、電子決済手段として扱われています。 狙いは価値の上昇益を狙う投機商品をつくることではなく、1円を24時間いつでも即時に動かせる「使える円」を実現することにあります。
この日本型のデジタル円はビットコインのように「既存の金融システムの外側から生まれた代替通貨」ではなく、最初から公的な枠組みの内側で動くことを前提にしています。 「これは投機ではなく、正式な円の決済インフラである」という位置づけで、1円=1トークンという価格の安定性と必要に応じていつでも円に戻せる償還性の両方を制度として担保しようとしているのが特徴です。 一方で日常の小口決済という観点では、すでにSuicaやPayPayといったキャッシュレス手段が十分に便利であることも事実で、「本当に一般ユーザーの日常に入ってくるのか?」という疑問は残ります。
では何が変わる可能性があるのかというと、「引き出せて、渡せて、国境もまたげる円」が登場することです。 SuicaやPayPayなどの残高は基本的にサービス内で完結するお金であり、自由に他人へ直接送金したり、即座に円として引き出したり、海外の相手にそのまま渡したりすることは前提になっていません。 これに対してJPYC型のモデルは、本人確認済みのユーザーであれば、円とトークンを1:1で相互にやり取りでき、そのトークンをブロックチェーン上で相手に直接送ることを想定しています。 これは「チャージして終わり」の閉じた残高ではなく、「外にも持ち出せる円」に近い概念です。 レジでの支払いを置き換えることではなく、企業間の資金移動、海外向けの小口送金、クリエイター間の支払いなど、これまで銀行では遅かったり、営業時間に縛られたりしていた領域を24時間化することにあります。
日本がつくろうとしているのは単なる「新しい決済手段」ではありません。 もし円がブロックチェーン上で安全に流れ、いつでも受け渡し・引き出しができることが当たり前になれば、その上には請求・経理の自動化、越境B2B送金、権利料(ロイヤリティ)の配分管理といった周辺サービスが一気に立ち上がる可能性があります。 日本発の「デジタル円インフラ」がどこまで産業として根づくのか、これから先はそこがいちばんの見どころになっていきます。