2021年1月18日 00:00
私はブログでもリアルでもほとんど「愛」について語ることはありません、また「愛」という言葉を多用する人も好きではありません。
何故なら、「愛」は極めて重い心情の一つだと考えているからです。
「愛」という心情を重いものと感じるようになったきっかけは28歳で起業した直後に到来したバブル景気の頃に、社会に出てきたばかりの若造の私が技術と資金力にものを言わせて非情な同業他社に対するM&A(企業買収・合併)を繰り返していた頃です。
その際に、対象の法人経営者やベンチャーキャピタルから「愛が無ければ何事も上手くいきませんよ!」とよく言われたのです。
その意味を正確に理解するのにはかなりの時間がかかりました、逆にM&Aを仕掛けられた際に痛いほど自身の「愛」が無かった非情な振舞いを思い知ったのです、これまで味方だと思っていた身内が敵対勢力に寝返ったのですから。
ところで、「愛」という漢字は何を意味しているのかと気になって調べてみたら、なるほど極めて重い意味があったのです。
ほぼそのまま引用させてもらうと「旡・心・夂の組み合わせによる愛。 旡は人間が後ろを向く姿、心は人間の心、夂は人の足を表します。 つまり愛とは人がゆっくり歩きながら後ろを振り返ろうとする心情を表しているのです。」、ということです。
愉しく過ごした後に別々の道で帰宅する際、一緒に過ごした人が「無事帰れるかな?」と心配になりつい後ろを振り向いてしまう、いつも心に気をかけている心情が表面に出る瞬間です。
こういった重い意味のある「愛」、そうそう簡単に使えないと思いませんか?
だから、簡単に重い意味のある「愛」を使う人は、物事を気楽に考える人であり信用できないと感じてしまうのです。
ただし、私は言葉としては使いませんが、冒頭のように心の中には常に抱えているところがあります。
厳しいノルマを課せる際も、非情に映る人事異動や退社勧告も、全て必ず逃げ道やリカバリーの余地を残してあげます、自らそれに気付いてほしいと思うからです。
ビジネスも自身の業務も、そして家族や同僚・仲間・取引先に対して、この「愛」が無い人は確実に孤立して行きます。
他者事を自分よりも優先して思いやる心、これが「愛」という心情なのです。
だから他者に対して、また何事に対しても「愛」に欠けた人は絶対に上手くいかないのです。
思ったように上手く行かないのは努力や能力が足りないのではありません、自身の仕事・職場・事業・商品・サービスなどに対して「愛」が無いのです、そして身内に対して自己願望を押し付けるだけで相手を思いやる「愛」が無いのです。
子曰く「それを知っている者は、それを好きな者には敵わない。 それを好きな者は、それを愛する者には敵わない。 私はいままでに人を愛するように学問(生業)を愛する者に会ったことがない」。