アスファルトの道路の隙間にひっそりと咲くタンポポ、何という生命力なのでしょう。
このタンポポは確実にこの世に存在しています。
しかし、それに気付いた人だけがそのタンポポの存在を知り、そして多くの気付きを得られます。
これと同じようなことが「チャンス」と「人の縁」です。
誰もが同じ環境にいれば、天から同じチャンスが与えられます。
でも、それに気付いた人だけがそれをチャンスと認識し我が物にすることができるのです。
人の縁も同じこと、その人は自分にとって将来どれほどの幸運と利益を齎せてくれるのかその時にならなければ解りません。
しかし、多くの人は今だけを見て考え、自身の利益優先で付き合うか否かを結論付けてしまっているように思います。
酸いも甘いもいろいろな経験を積んでくると、絶対に現状だけを見て判断はしないものです。
良いことも悪いことも、人というのは今ではなく真の姿はある時期にならなくては解りません。
鋭い感性でそのものの本質を見極めること、この感性が重要です。
薬の発見は?
宝石の発見は?
合金の発見は?
みんな鋭い感性の持ち主によって見つけ出したのです。
目にする全ての物を、目で「見る」のではなく心で「観る」ことが肝要です。
そして、これらは多くの経験によって自身で学んで身に着いてくるようになるのです。
少し前までは週末の夜ともなればあちらこちらで行われていた街コン、最近は静かな週末を過ごせるようになりました。
この終焉は言うまでもなく例の主催者の強姦事件を発端としています。
その後、同じような事件が報道され一気に冷え込んでいったことは想像するに容易いものがあります。
こういったリアルコミュニティのイベントでの事件、主催者が主導していれば論外ですが主催者が知らないところでの会員同士の事件であっても主催者責任が問われることをご存じでしょうか?
入会時に入会規定や免責事項をうたったところで、これらは事件ともなれば何の意味もありません。
まして、会員から会費を取っているなら責務から逃げられない根拠となってしまいます。
法廷で責任追及されたときに、「入会時に入会規定や免責事項を示している」というのは主張としては聞き入れてもらえますが、それによって罪が軽くなることはまず無いと思った方がよい代物です。
何故なら、これらは法的に強制力が無い個人の「ローカルルール」という範囲に他ならないからです。
どんな事が起きてもよいように常に万全の管理体制と責任ある統制力でコミュニティをまとめて行ける人でないなら、コミュニティの主催者にならない方が無難だと思います。
世の中、楽しい事の裏には必ず厄介な悪魔が潜んでいる事を覚えておく事が肝要です。
何をやるにも誰がやるかが重要です。
そして、コミュニティを作るなら自分が責任を持って保証できる人だけを会員にすることが無難かもしれません。
今も昔も口達者な人がいます、ところで口達者とは「話しが上手い」とか「交渉に長けている」などという意味ではありません。
役に立たない事項を自分の言いたいように話しができるという意味において、本来は褒め言葉としては使えない言葉なのです。
ビジネスに、自分の言いたい事をハッキリ言えるかどうかなどはどうでもいいことであり何の役にもたちません。
話しをさせれば、何を言っているのかよく解らないが大成功している人など幾らでもいます。
セミナーやプレゼンテーションだって同じことです、言いたい事が言える能力などは関係ありません、相手に正確に伝えられる能力が肝要でありそれは話し方の問題だけではなく人間性を含めた仕草などすべての評価なのです。
話しは上手いがビジネスにまったく繋がらない人は、話しをするという行為そのものに何か大きな勘違いをしているかもしれません。
結局のところビジネスに重要なのは姿勢と結果だけです。
口達者で言った事をやらない、約束は守らないか忘れる、金払いは悪い、仕事を頼めばやっつけ仕事、これでは評価に値しません。
話しはよく解らない、でもしっかり約束を守り言った事は必ず実行する、当然有益な人が寄ってきます、ビジネスで成功する人はこういう人なのです。
最近では口達者というか言い訳達者が多くなってきている気がします、言った事をやっていない現状を咎めると、冒頭から「やろうと思っていました」と言い訳が始まります。
「口達者が何になる、覚悟が乏しい証拠だよ」とは孔子の教え、今も昔も口達者は厄介者として見られているようです。
プロなら言い訳する状況をそもそも作りません、言った事を約束通りの期日までに行うだけのことなのですから、それがプロとしてのルールであり信頼されるための最低限のマナーなのです。
起業したての経営者に多いのが、双方の見解に食い違いが出て自身の行動を咎められると、「家族を守るため」とか「社員を守るため」とあたかも自身の行動が誤っていたとしても致し方ない事であると正当性を主張し、それを理解し認めてもらおうとします。
しかし、これは結果的に思惑とは裏腹に解決に向け良い方向へ動く事はなくどこまでも平行線になる結果となります。
何故かと言うと「守るべきもの」を主張するのであれば、それは誰にでも「守るべきもの」が存在しているからです、実に簡単な理論なのです。
つまり、あなたの「守るべきもの」を守ろうとすると私の「守るべきもの」が守れなくなる、これは理屈としておかしいことになります。
普通に考えれば当然のことですが、保身でついそれを口にしてしまうのが経営経験が浅いという証拠でもあるのです。
経営経験が豊富になると世間や他者を理由にしたネタには持ち出しません、それが何の意味もないどころかむしろ逆効果になる事を解っているからです。
経営者とはどのような状況であれ、すべてが自分の行動原因による結果であるという責任を担っているのですから。
自分の行動原因によって都合悪い状況を作っておいて、持ち出された家族や社員が聞いたらどう思うでしょう?
少なくても自分たちが守られているとは決して思いません、場合によっては「他者のせいにしてかっこ悪い」と思うかもしれません。
本当に家族をそして社員を守りたいのであれば、自身の過ちを認めずに正当性だけを認めてもらおうとする姿勢や、その他者を引き合いに出してでも自身の行いを正当化しようとするプライドを捨てることです。
プライドをかなぐり捨てて「私が間違っていました、本当にすみません」、この一言で大切なものを守れる可能性は飛躍的に高くなるのです。
「家族を守るため」、「社員を守るため」と口では言いながら、本心は経営には何の有益にはならず過ちを認めないという自身のプライドを守っているに過ぎないのです。
「守ろうと思えば守れない」、本当に大切なものを守るとはどういうことなのか?
経営者として成功したいのであれば、冷静にそして真摯に考えてほしいものです。
イタリアの経済学者パレートは、自分の経験則から「パレートの法則」を著書によって打ち出しました。
「パレートの法則」とは、簡単に言うと「多数は少数の要因によって決定される」という理論です。
その後、世界中の経済人がこの「パレートの法則」を引用し、具体的な数字をあげて改良版を打ち出しました。
例えば「組織で役に立つ人は20%、全く役に立たない人も20%、残りの60%は役に立つ20%の人の補佐役」、「売り上げに占める商品のうち20%の商品が全売り上げの80%を占める」などです。
しかし、「パレートの法則」では、それらの具体的な数字の根拠を示しているわけではありません、あくまでも「自然界の傾向と実際の経済の傾向が見事に一致している」という観測結果のみを言っているのです。
つまり、これらの数字には全く法則どころか科学的な根拠も有りません。
しかし、これを読む人はそれぞれに拡大解釈してまるで自論のように応用していくのです、人間というものが如何に都合を欲しているかが解りますね。
物事を自分の都合のよいように偏見によって作り上げ、そしてそれを支持される事によって市民権を得るのです。
支持者はそれが根拠のないものであろうが自分に心地よいものであれば取り入れ、そして法則や数字に翻弄されていくのかもしれません。
横道ですが、このような展開は科学においても然りです、現在常識化している科学の解明は全てが先人達の功績を継承された結果なのです。
そして検証されていくにつれ提唱者である天才が突如として脚光を浴びます、アインシュタインも実はこの一人なのです。
もしも未来において、解明・検証されなければどんなに正確で根拠のあるすごい発見であってもその提唱者の名前さえ歴史に刻まれることはありません。
さて、ここで「本物」とは何故「本物」と謳われるのでしょうか?
それは類似品が出てこなければ、あえて「本物」と差別化する必要がないということが前提にあります。
つまりは、類似品が出るという事自体がそれが「本物」であるという評価に繋がるのです。
賢い経営者は自社商品の類似品が出ると、「やっと評価された!」と手放しで喜びます、そして類似品が世に溢れるとき本物が本物として評価される瞬間なのです。
そこで私の自論、「自己の利益は他者の利益に染み込ませろ!」、つまり他者に先に利益を取らせること、これが堅実なる賢い「本物志向」のビジネス手法なのです。